母、星になる ~余命宣告~

突然ガンの余命宣告をされた母と命の選択を迫られた私たちの家族の記録です。

母、実家に帰る ~霊柩車に乗って~

DAY07 2022年7日22日 木曜日

 

6時前に病院が連携している葬儀社が来た。母はまたストレッチャーに乗せられ、病院をあとにした。駐車場に霊柩車が来ていて、私は母と一緒に霊柩車に乗った。転院するときと同じ道路を走行して、母の実家に向かった。まだ早朝だというのに道は混雑していた。

 


私は先に母の実家に向かった妹夫婦に連絡を入れた。

 

「今から母さんと帰ります。」

 

 

車のフロントガラスからの眺め

 

混んでいなければ30分以内で着く道程を、私と母を乗せた霊柩車は小一時間かかって、母の実家に着いた。葬儀社の人たちが母を実家の和室に運び入れて、布団の上に寝かせて、普段使っていた母の掛け布団の上から真っ白なサテン生地の掛け布団を掛けた。

 

病院から母を搬送した葬儀社のスタッフは帰り、その後に葬儀代の見積もりをしに営業担当者が来た。葬儀の日時を決めるのためには、近所のお寺の住職のブッキングと火葬場の手配が必要だった。

 

その営業担当は日程の調整を行うのに、自社のスタッフと話す振りをして自動音声を使用しているのがたまたま操作ミスして傍にいる私たち家族にまで聞こえたので、私たちは搬送した葬儀社での葬儀は行わないことにした。

 

私と妹夫婦は各々自身のスマホで葬儀社の検索をした。葬儀は母の実家の和室で親族のみで執り行うので、そういったプランがある葬儀社に頼むのが望ましかった。私が検索結果で出た葬儀社に問合せて、11時頃に見積りに来てもらうことになった。

 

その前に近所のお寺の住職が来て、母のために「枕経」をあげてくれた。私は一度、葬儀の打ち合わせの前に顔を洗ったり、着替えるために母の部屋に戻っていた。

 

11時に葬儀社のアドバイザーがやって来た。初めての葬儀で戸惑う私たちに分かり易くいろんなことを説明してくれた。その説明の中でまた母の子供として生まれてきたいという気持ちを込めて自分の「へその緒」を母の棺桶に入れると聞いた。

 

私たちは後から見つけた葬儀社で葬儀を行うことを決めて、火葬場の予約の都合上、住職には少し無理を言って日曜の午後に時間を空けてもらって、土曜の夜に通夜、日曜に葬儀を行うことになった。高齢の父に喪主は任せられないので、私がなった。

 

私は午後から母の住んでいた家に戻り、和箪笥から私と妹のへその緒を見つけた。随分と以前に何となく見せてもらったのを覚えていただけでどこにしまってあるか確証はなかったが、探し始めてすぐに見つかった。更に母自身のへその緒も見つけた。

 

私は数十年前に祖母が亡くなった時に、母が言ったことを思い出した。母にとって祖母は何でも出来る憧れの女性でまた祖母の子どもとして生まれ変わりたいと願うことに引け目を感じていたそうだ。私は母のへその緒も持って行くことにした。

 

夏の暑い時期なので室内の温度は常にエアコンで低めの温度に調整する必要があった。そして時折、母の顔に滲む水滴をティッシュペーパーで拭う必要があった。母の目頭に溜まる水滴は涙のように見えて、それを見て妹は悲しんでいた。

 

母の実家で7月23日に通夜、7月24日に葬儀を行うことになった。

 

その日の夜、私は母の実家で四方八方をドライアイスで囲まれた母と一緒に横になった。

 

私は何度も母の寝顔を眺めて、泣きながら何度も謝った。


病気に早く気付いてあげれなかったこと


母が一番しんどい時に傍にいなかったこと


辛い状態の時に駆けつけてあげれなかったこと


自分で動けなくなるまで母を我慢させてしまったこと


無理矢理でも母を私の住む街に連れて帰らなかったこと


最期に痛い思いをさせてしまったこと。。。

 

どんなに悔やんでも悔やみきれなかった

 

うずくまる女性の画像