母、星になる ~余命宣告~

突然ガンの余命宣告をされた母と命の選択を迫られた私たちの家族の記録です。

母と姪

DAY03PM 2022年7日18日 月曜日

ある日の晩ご飯

その日の午後、母の実家まで姪がやって来た。姪と会うのも数十年ぶりだ。生まれた時から接していたので懐かしく、成人した今もあどけなさが残っていて微笑ましかった。一緒に昼食を食べながら、予め母の病状やこれまでの経緯などを話した。

 

姪は1年以上前に友人と母の部屋を訪れて以来、顔を合わせていなかった。一度目の訪問は夏で母の体調が優れない時期だった。当日に姪は母に連絡を取り、来てもよいとのことで母の部屋を訪れて、母は家にあるもので夕飯を作って姪と友人に振舞った。

 

姪はその時は特に具合が悪そうには見えなかったと言った。私は母からその時は体調が優れないので断ろうかと悩んだが、忙しいのにわざわざ来ようとしてくれているから無理をしたと聞いていた。「しんどい」より「会いたい」が勝ってしまったのだ。

 

姪はこちらから頼む前からiPadを持参してくれていた。母に面会したくても出来ない親戚、特に2歳違いの姉からは携帯電話に着信があったので、出来ることならリモートでも面会させてやりたいと私たちは考えた。

 

しかし、そもそもの面会時間が短く、通信の設定だけで時間がかかってしまい、肝心の面会する時間が減ってしまうということで断念せざるを得なかった。母には少しでも長くたった1人の孫との面会時間を持ってほしい。

 

姪と私は話しながら歩いて母のいる病院に向かった。病院への道は私と従兄と妹が通っていた中学校の通学路と同じだった。三連休の最終日だが、人の通りは少なく、暇を持て余した小学生が家の前に遊んでいるくらいだった。

 

午前中と同じように受付で入館手続を済ませて、姪と2人で母のいる病室に向かった。先ず、私が母の様子を見てから姪に病室に入ってもらった。母は姪の顔を見た途端

「ごめんなぁ」

と力なく謝った。母は姪に元気な姿ではなく、弱った姿を見せたくなかったのだと改めて悟り、私は何とも言えない切ない気持ちに襲われた。

 

お見舞いのメッセージ付きのカード

 

姪は母に普段通りに話しかけながら、作成したメッセージ付きのカードを見せたり、午前中に妹が持参したイヤホンマイクの使い方を説明したりした。母は電話が鳴ってから耳に装着するのが大変なのと、声が聞こえづらいと言った。

 

私は母と姪が話している間に持参したスイカを絞った。母と私は夏場に体調を崩すことが多く、よく自転車でスーパーにスイカを買いに行っては夕食後に食べていた。水では十分満たされない水分と養分をスイカでは補えるからだ。

 

夏のスイカの画像

 

母の口元にスプーンでスイカの絞り汁を持って行くと、飲んでくれた。そして、母が

「おいしい。もっと」

と甘えるように冗談っぽく言うので、もう一度二度スイカの絞り汁を母に飲ませた。本当は母の背中には出産の何倍もの痛みがあるのに、母は私たちの前で努めて明るく振舞っていた。

 

私は母と姪が話している間にタオルを濡らしてきて、母の身体を拭いた。寝返りを打ったり姿勢を変えたいのだが、背中に激痛があり動かすことが出来ない。時折、母はベッドの手すりに捕まって耐えがたい痛みに顔を歪めた。

 

そうしているうちに午前中に病室に来た看護師が病室の入り口まで来て、母の前で私に急変時の対応、延命治療に関する書類を提出するように言って来た。主治医には母には病名も余命が短いことも伝えないようにお願いしたのにもかかわらず。

 

さすがにその看護師の心ない対応に憤りを感じたが、母を不安がらせたくなかったので平静を装って、母が感づいていないことを願いながら明日に書類を提出する予定だとその看護師に伝えた。

 

次の日に妹夫婦と一緒に主治医から病状の詳細を改めて説明してもらうことになっていたので、母に「明日また来るからね」と言うと、

 

「走り回りたいわ」「一緒に帰りたい」


と母が言うので、私は母に言った。

「ずっと一緒やからね」

 

母の病気を治してやれない、連れて帰れない今はそう言うよりほか仕方なかった。

 

病院をでてしばらく歩くと母からスマホに着信があった。電話に出ると、イヤホンマイクの装着がし辛く、通話しても聞こえづらいと言った。私と姪はすぐに母の病室に戻って、母の携帯電話からイヤホンマイクを外して

 

「これで前と同じように話せるよ。何かあったら電話してよ」

 

と母に言うと、母は自分の携帯電話を抱きしめるようにしてベッドに横たわった。

 

コロナ禍でなければ、ずっと母の傍にいられるのに

 

私はそう思わずにはいられなかった。